アラサーOLの備忘録

東京に暮らすアラサーOLです

祖父が亡くなった

祖父が亡くなった。87歳だった。

 

認知症が進み、要介護2で施設に入っていた。約1年前に入居したが新型コロナが猛威をふるい、実家に住む家族でさえもほとんど会うことはなかった。いわんや東京で働く孫など、会えるはずもない。

 

朝に弱いわたしだが、なぜかその日は7時に目が覚めた。そして母親からLINEが来ているのに気づいた。「おじいさんが亡くなりました。24日、午前1時頃です。詳しいことは、また後でね」

 

寝起きだからか、長く離れて暮らしていたからか分からないが、そのときは非常に冷静に受け止められた。母へ「承知しました。また後でよろしくお願いします」とビジネスライクに返信したくらいだ。その後、なぜかエアコンの暖房と冷房のボタンを間違え、冷え冷えとした部屋で二度寝した。マスコミ関連業で7時起きは不可能だと思う。

 

二度寝から目覚めると、今後は父から夜中にメールが来ていたことに気づいた。「夜分すいません。おじいさんが1時過ぎに亡くなったと病院から連絡がきました」と。「お疲れさまです。今までありがとうございました」とこちらもビジネスライクな返信をして、会社にどう伝えればいいのか頭を悩ませた。

 

結局、会社支給の端末から忌引き休暇の申請をするだけでよかったのだが、やや手こずった。同じグループのリーダー役には連絡をして、帰省してやるべきことを考えた。

 

まずは喪服のレンタルだ。10年前に親戚が亡くなったときに買ったものは、太ってサイズが合わなくなっていた。家の近所には礼服を扱う小売店もなかったので、喪服レンタルを取り扱っているサイトで信用できそうなところを選んだ。こちらはオプションで靴やバッグも付いてくるので非常に便利だった。

 

全く泣かなかったが、その夜「東京に出てしっかり働いている孫がいることは自慢だと思う」と声をかけられ、やっと泣けた。長年国鉄の運転手として働いてきた祖父は労働に対する意欲が素晴らしくある人、というより、健康な全ての人は働くのが当然と考えるような人だった。認知症になってからも、夜中に「仕事だ」と出かけようとしていた。だからなのか、精神疾患を持つ息子(わたしの父)が働けなくなったときは、かなり厳しい態度で接していたように思う。休職を挟みつつ働いている自分は、祖父の理解の範疇にギリギリ入っていたのだろうか。

 

通夜前日に地元に帰っても、祖父が亡くなったという実感はなかった。ああ、本当に死んだんだなと理解したのは通夜の前の何とかという儀式で棺に入った祖父を見たときだ。昭和10年生まれにしては体格の良かった祖父なのに、ずいぶん痩せていて、その姿を見ると涙を止めることができなくなっていた。施設に入ってからどんな扱いになっていたんだろう。アザがなぜかたくさんあって、皮膚が冷たくて、それなのに脚はしっかりとしていて存在感があった。

 

わたし以上に泣いていたのは首都圏に住んでいる叔父で、彼が号泣している姿を見ることで少し冷静になれた。酔っ払いがさらに泥酔している人を見て、冷静になるのと一緒だ。やはり高齢の親の普段の世話をしていない人、遠くに住んでいる人ほど大泣きするというのは本当だ。世話の量には雲泥の差があるのに、遺産は祖母や父と公平に分けるのか。でもそんな金持ちではなかったからな、と下世話なことを考えて、涙を止めた。

 

通夜と告別式はコロナ禍にありながら、それなりにきちんとしたものだった。火葬場で骨を拾うことになり、親戚数人とだらだらと祖父や一族のことを話す時間もあった。昔祖父の実家で浜茶屋を開いていたこと、列車の燃料が石炭から電気になって大喜びしたこと(楽だから)などは初めて聞くことだった。祖父の骨は想像通り立派に残り、量も多かった。骨壺ギリギリまで骨が入った。

 

全体的にきちんと生きた人だった。そんな人から働くのが嫌いな父が生まれたのは奇遇だし、そこからさらにきちんとしていない孫娘が生まれたことをどう思っていたのかは知らないが、それなりに幸せを感じていたことを祈る。またどこかで会いたいね。

それからの母

年末に実家に帰って最も驚いたのが、母の声がガラガラになっていたことだった。甲状腺がんの手術をしたのだから当たり前だが、元々が澄んだソプラノだったので余計にびっくりした。事前に父から「ハスキーな声になったよ」と教えられていたのだが、彼なりの優しいたとえだったのだろう。わたしにとってはハスキーどころの騒ぎではなかった。

 

それでも時間が経てば徐々に慣れてくるものだ。声を失う可能性もあった中で、何とかしゃべれている。医学の発展と執刀医に感謝しなくてはいけない。

 

母は口から物を食べられず、4kg痩せてしまったらしい。うらやましい反面、病気で痩せるのは辛いだろうと思う。食べる練習をしなくてはいけないのだが、3mmくらいにつぶした小さな里芋や肉を口に運ぶだけでゴホゴホとむせてしまう。何も食べずにむせてしまう時もある。その時の様子を見るのがとてもつらかった。

 

実家にいる間は大雪のせいもあり、ほとんど家にいた。完全な寝正月だった。鍋や寿司、刺身と豪華な食事でもてなされ、家族が消費しきれない缶ビールを何本か飲んだ。

 

目下の悩みは実家近くに母親向けのリハビリ施設がないこと。自分の病状についてプロと話せないのは、とてもつらい。行政のホームページなどを見ても、わからないことが多い。本当なら行政に電話の1本でも入れたいところだが、それはきっと母がやるべきことなのだろう。

 

わたしは複雑な思いを抱えながら、東京で仕事をづづけている。

 

 

母ががんになった6

手術が終わってすぐはスマホも見られないだろうと思い、翌々日にLINEのスタンプを送った。なかなか既読がつかず、ついた時にはホッとした。返信はなかった。

 

その翌日にスタンプ1つと「会いたいよ」と短いメッセージを送ったら、ベッドに横たわった母親の自撮り写真が送られてきた。喉を中心に体の様々な部分がチューブで繋がれていた。目は半開きで、やっとの思いで撮影したのが伝わってくる。

 

「無理」「スマホはできる」

 

最初の「無理」はわたしの「会いたいよ」に対する返信だったのだろう。これまで何があっても「大丈夫」「落ち着いて行動してね」という優しい対応をする母が、一言「無理」と言っている。ただごとではないということを、恥ずかしながら、このとき初めて認識したと思う。

 

「頑張っているね」「どこが痛い?」「みんな会えなくて残念そう。わたしもだけど。それだけは伝えたかった。またね」。わたしはいつもの100倍ポジティブで大人な自分を演出した。

「息苦しいのと顔の両側が突っ張っている感じ。写真をみんなに送信しておいて。頑張るわ」

 

「術後1週間になり、画期的に回復途中です。でもゆっくり食べられないの〜」

「もうダメかと思ったけど、色々な人に生かされている感じ」

「12月中も入院です。仕方ないよね。少しずつ、良くなるしかないよね」

 

母の言葉は時折哲学者のようになった。それでも元々の親しみやすさは変わらず、緩やかに回復していっているのだろうと想像していた。

 

だから余計に「胃ろうをつくる」と聞いたときは驚いた。本当に母は重病人なんだなと思った。手術は成功したのだが、胃ろうの扱いに手こずっているようだった。

「胃ろうの操作ができなくてイライラしてる。人がしてくれる方から見ると簡単だけど、自分でするのは手が逆で難しい!怒っても仕方ないけれど〜」「慣れるしかないね」

 

1週間程度経つと胃ろうにも慣れてきた。その頃には「昔行った椿山荘のレストランが『ゴチになります』に出てたよー」とか他愛ない話をしていた。

 

年末年始はどうしても母に会いたくて、実家に帰った。

母ががんになった5

11月の初め、母は手術のために病院に入院した。新型コロナのためか、手術の前の日にやっと入院できたようだった。「緊張して寝られなかった」というLINEを眺めながら、わたしは数日前に受けた会社の健康診断を思い出していた。

 

採血やレントゲン検査を受け、最後が医者の問診だった。その問診の終わりに首にしこりがないか直接触られて確認された。「コロナがなかったら母親もこんな風に健康診断を受けて、そのときにしこりが発見されたんじゃないか。そうだったら手術なんて受けずに済んだかも知れないのに」と思ったが、もう遅い。現実に母は手術を受けようとしている。

 

手術日当日に入っていた会議や仕事は、いい具合に手術のことを忘れさせてくれた。あまりにも連絡が来ないので「もしかして失敗?」と不安に思ったりもしたが、だったら慌てて連絡が来るだろうと自分に言い聞かせた。

 

「11時から始まった手術が17時に無事終わった」と父からメールが来たときは心底ほっとした。チャラそうだと思っていた執刀医に感謝の気持ちでいっぱいだった。母は何とかなったんだ、もう大丈夫なんだと思っていた。

母ががんになった4

長崎旅行が終わり帰ってきた数日後、母から「11月に入院して、手術になりました。最悪の結果はないけど、お騒がせします。ごめんね」とLINEがきた。ここでいう最悪の結果とは、手術ができないほど末期だったということ。手術ができるだけありがたい状況なのだ。

 

手術日が11月9日に決まり、前日から入院することが決まった。あと1ヶ月以上かかる。新型コロナの影響もあり、他の患者の手術が延期されていたのが影響したようだ。こんなことなら長崎行けたんじゃね?とも思ったけれど、それはもう終わったことだ。

 

その間の母は入院の準備で忙しそうだったけれど、表面上は元気そうだった。LINEや電話で連絡を取り合っては「本当に病気なの?」と笑い合った。

 

精神的に落ち込んだのは自分だ。仕事はそれなりにしていたはずだったのだが、なぜかやる気が出なくなった。妹の義父が若くして亡くなったことも大きかったのかも知れない。モヤモヤする気持ちを抱えてながら、無理やりパソコンに向かうがダメだった。

 

10月5日に「母が甲状腺癌になり、妹の義父の余命があと1ヶ月とわかった夜。なぜこの人たちがと思うけれど、わたしのやるべきことは仕事をしてお金を稼ぐこと、生活を整えること、心配をかけないように自立すること、大好きですと伝えることくらいかな」というツイートをしておきながら、14日には「月曜日から精神的につらくて、ほとんどベッドから動けなかった。マジで死のうと思い会社の人に電話したら『休んでもいい』との回答。甘えさせてもらい、火曜はずーっと部屋の中。メールも見なかった。そしたらだいぶ落ち着いた」とツイートしていた。

 

知らず知らずのうちに、負荷がかかっていたのかな。妹の義父はあっという間に亡くなって、今度は母(甲状腺癌ステージ4)も、と思うと耐えられなかった。「お母さんが死んだら、わたしも死ぬ」って言って、叔母に叱られたなぁ。共依存だってお互い実感しているのでね」

「つらいよ」

消えたい。死んでしまいたい」

 

14日は本気で死にたくなり、自殺を考えるのと同時に、自殺相談電話やLINEを探すという矛盾した行動をとっていた。つらい状況を見ないようにしたかったからかは分からない。結局電話やLINEは全くつながらず「日本にはこんなにも死にたい人がたくさんいるんだな」と妙な納得をしたことを覚えている。

 

あまりにもダメなわたしを心配して、病身を押して母が上京してきてくれた。こんなにも甘えたことはなかった。本当に自分は馬鹿だと思った。母が死んだらわたしも死ぬのが当然のように思えた。

 

母が地元に戻った後は、反対にわたしも帰郷した。スターバックスに行ってコーヒーやお茶を飲み、スマホで撮った家族や旅行の写真を整理した。母がやりたかったことだ。秋の荒天を忘れるくらい、ほっこりした良い時間だった。

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母ががんになった3

シルバーウィークに計画していた旅行は無理を言って友人に付いてきてもらった。友人と母は高校時代から面識があるので、とても心配してくれた。母も「○○さん(友人)の言う通り、治る病気だと思います。少し休めということかな?」と返信してきた。

 

長崎旅行はそれはそれは素晴らしかった。様々な文化が往来したのが分かる長崎市内、稲佐山からの夜景もよかった。

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特に良かったのは島原鉄道の「しまてつカフェトレイン」。おいしいスイーツを食べながら、日本で最も海に近いとされる大三東駅などを楽しめる観光列車で、母が乗りたがっていたものだ。長崎に行く機会があれば、ぜひ乗ってほしいと思えるほどの出来栄えだった。

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LINEを使い「いま大三東にいるよー」と実家に帰っていた母親と電話した。アテンダントの方も「今度またぜひいらしてくださいね」と話してくれた。母は少し泣いていた。

 

雲仙で1泊、小浜で1泊した。どちらの宿も素晴らしく、観光も楽しかった。ただ時折「本当はここもお母さんと来るはずだったんだよな」と感傷にふけり、友達にも申し訳ない思いをさせた。

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母のことで雲行きが怪しくなったのは小浜に泊まった日だ。この日は敬老の日でもあり、友達がホテルのベランダで涼んでいる間に父方・母方の祖母に「おめでとう」と電話していた。母方の祖母と話していると、伯母(母の妹)に変わった。

 

叔母もかつて甲状腺癌をやったことがあるので「お母さん、どうなのかな?」と聞くと「あんた、何にも教えられてなかったの?」とあきれられた。ステージ4であること(叔母はステージ2)、手術に時間がかかること、退院したら母の実家(叔母と祖母が暮らす)ことなど、初めて聞くことばかりだった。体が震えた。涙がこぼれる。そんな姿を友人に見せたくなくて、トイレにこもった。スピーカーで話し続けながら、甲状腺癌の情報をインターネットで探しまくった。

 

「もしお母さんが死んだら、わたしも死ぬから」。叔母に伝えると「またあんたは馬鹿なこと言って・・・お母さんが伝えなかったのは心配させたくなかったからだよ。○○(自分)が東京でちゃんと仕事をすることを一番望んでいるはず」という言葉が返ってきた。そのほか「健康だけが取り柄だったところがあるから、本人も驚いていると思う」「家族がしっかりサポートしないと、病気に立ち向かえない」というお言葉もいただいた。教員で自立していて強い人だから、こんなに上から目線で喋れるんだな。だから結婚には失敗したんだな。と腹は立ったが、地元で母を支えてもらっているのは事実だった。

 

ステージ4という事実を受け止められなかったが、ホテルの温泉で泣きながら徐々に認めようとしていた。「もう医者や病院を信用して、祈るしかない」。長崎空港で母に送るカステラを選びながら、自分の心を何とか落ち着かせようとしていた。
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母ががんになった2

9月11日の検査の数日後に結果が出ることになっていた。その時の自分の気持ちとしては「もしかしたら癌かも知れない」「でも見た目も声も元気そうだったしな」「癌だとしてもステージが早いものかも」「ていうか癌じゃないかも知れないし」と、最悪の状況から楽観的なものまで、気持ちが行ったり来たりしていた。

 

大病にかかった友人や近くに住む友人に「母親が癌になったかも知れないんだけど、まだよくわかんなくてさー。甲状腺?が腫れているみたい」と話して、不安を発散させていた。埼玉に住む友人カップルとは焼肉にも行った。何か行動していないと、落ち着かない。言い訳のようだが、仕事はほとんど進まなかった。

 

結局9月15日に母からLINEが来た。「お疲れ様です。ごめん、やっぱり旅行は無理みたい。甲状腺癌っぽいわ。リンパに転移したのね」「明日、○○(隣町の大きい病院)に検査に行く算段をしてもらう。本当にごめん」「お金渡すから、一人分キャンセルしてください」

 

このLINEを受け取って思ったのは、今考えれば愚かだが、長崎旅行のキャンセル料が諸々発生してしまうことへの不安だった。何ヶ月も前に「ことりっぷ」などのガイドブックを見て、ここの宿がいいね、予約取れるかな、とワクワクしながら予約したのに。

 

いや、でも癌の手術って準備するまでに時間がかかるんじゃないか?だったら1週間後の旅行も行けるんじゃない?と楽観的な気持ちで、たまに泣きながら母親に何度も聞いたが、答えはノーだった。もしも長崎で倒れるようなことがあれば、周囲に迷惑がかかるというのがその理由だった。

 

患者の立場になって考えれば至極当然のことかも知れない。しかし、その頃は自分の気持ちを母親にぶつけるだけで、母親の気持ちに寄り添えなかった。結局、諸々の手続きを経て、長崎へは友人と行くことになった。