母ががんになった4
長崎旅行が終わり帰ってきた数日後、母から「11月に入院して、手術になりました。最悪の結果はないけど、お騒がせします。ごめんね」とLINEがきた。ここでいう最悪の結果とは、手術ができないほど末期だったということ。手術ができるだけありがたい状況なのだ。
手術日が11月9日に決まり、前日から入院することが決まった。あと1ヶ月以上かかる。新型コロナの影響もあり、他の患者の手術が延期されていたのが影響したようだ。こんなことなら長崎行けたんじゃね?とも思ったけれど、それはもう終わったことだ。
その間の母は入院の準備で忙しそうだったけれど、表面上は元気そうだった。LINEや電話で連絡を取り合っては「本当に病気なの?」と笑い合った。
精神的に落ち込んだのは自分だ。仕事はそれなりにしていたはずだったのだが、なぜかやる気が出なくなった。妹の義父が若くして亡くなったことも大きかったのかも知れない。モヤモヤする気持ちを抱えてながら、無理やりパソコンに向かうがダメだった。
10月5日に「母が甲状腺癌になり、妹の義父の余命があと1ヶ月とわかった夜。なぜこの人たちがと思うけれど、わたしのやるべきことは仕事をしてお金を稼ぐこと、生活を整えること、心配をかけないように自立すること、大好きですと伝えることくらいかな」というツイートをしておきながら、14日には「月曜日から精神的につらくて、ほとんどベッドから動けなかった。マジで死のうと思い会社の人に電話したら『休んでもいい』との回答。甘えさせてもらい、火曜はずーっと部屋の中。メールも見なかった。そしたらだいぶ落ち着いた」とツイートしていた。
「知らず知らずのうちに、負荷がかかっていたのかな。妹の義父はあっという間に亡くなって、今度は母(甲状腺癌ステージ4)も、と思うと耐えられなかった。「お母さんが死んだら、わたしも死ぬ」って言って、叔母に叱られたなぁ。共依存だってお互い実感しているのでね」
「つらいよ」
「消えたい。死んでしまいたい」
14日は本気で死にたくなり、自殺を考えるのと同時に、自殺相談電話やLINEを探すという矛盾した行動をとっていた。つらい状況を見ないようにしたかったからかは分からない。結局電話やLINEは全くつながらず「日本にはこんなにも死にたい人がたくさんいるんだな」と妙な納得をしたことを覚えている。
あまりにもダメなわたしを心配して、病身を押して母が上京してきてくれた。こんなにも甘えたことはなかった。本当に自分は馬鹿だと思った。母が死んだらわたしも死ぬのが当然のように思えた。
母が地元に戻った後は、反対にわたしも帰郷した。スターバックスに行ってコーヒーやお茶を飲み、スマホで撮った家族や旅行の写真を整理した。母がやりたかったことだ。秋の荒天を忘れるくらい、ほっこりした良い時間だった。